パウル・クレー , パウル・クレー生誕 139 周年 Google Doodle

 

パウル・クレー , パウル・クレー生誕 139 周年 Google Doodle

ドイツ系スイス人、ベルン近く、ミュンヘンブフゼーで音楽教師の家に生まれた。クレーもヴァイオリンの名手で、ピアノ教師と結婚。

キュビズムからの影響に加え、民族美術、幼児の絵にも大きな関心があった。

クレーの作品は、視覚的に魅力的だか、その意味を解するのは説明がいる。風刺画によく見られる題名と絵との相互依存関係があるのだ。題名だけでもピンとこないし、絵だけでもピンとこない。両方が必要なのである。
そういった風刺画的な、題名と絵との関係も捨てることなく、逆にそれを芸術へ高めていった。

クレーは絵と言葉の遊びの性格を利用した。美術は記号の言語であり、観念の表象である形態の言語ある。記号は、私たちが見た瞬間に自動的に意味を発する。記号を引き金にして、見る者の意識に作用させる。
実は大変に統制がとれていて、理論に体系的な流れがあるのが、クレーの絵画である。

1900年からミュンヘンの美術学校へ半年通う。ここでは分離派のシュトゥックから教えられた。
1911年からカンディンスキーらの「青騎士」グループと交流。
1912年に「青騎士」の第二回展に参加した。
同年、パリにいたロベール・ドローネーを訪問している。

1914年、チュニジアへ旅した。このころから色彩に関心を持つようになる。これ以後は色で構成された抽象的が作品を描くようになる。抽象的で、合わせて詩情ある作風になるようになった。

1916年、第一次大戦に徴兵された。親友のフランツ・マルクが戦死している。

1920年~30年、ワイマール、デッサウのバウハウスで教えた。絵画教育を理論化することに貢献する。
1931年からデュッセルドルフ美術学校へ移る。
1933年、ナチスに追われ、以後ベルンに定住した。102点の作品がナチスに没収され、1937年の「堕落美術展」には、そのうち17点が展示されたという。

晩年は皮膚硬化症と戦いながら、1928年に行ったエジプト旅行で関心を持った形象の記号化を進めた。
また幼児の絵のような表現「天使」の連作など簡潔であり、なおかつ詩情ある作品を残した。
結核で61歳で亡くなった。